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「なるほどね」
彼は重ねた両膝の間に尻を落すやうにして坐つていた。それは七十近いこの年まで坐りつゞけ、他の坐方を知らない者に独特な、云はば正坐しながらあぐらをかいているやうな安楽げな恰好だつた。そして、何か話すたびに前へ首を落すので、その猫背はだんだんと前屈みがひどくなつて、胴から上が今にも両膝の間にのめりこんでしまひさうに見えた。が彼がすこぶる上機嫌でいることは房一の目にも見てとれた。
もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めていた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けていた。
「なんですか、御挨拶まはりですかね、それはどうも御苦労さまですなあ。――まあ、お上り下さい」
「え?いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
廻転椅子に肥つた身体を一見窮屈さうにはめこんだまゝ、房一はその捉へにくいものを捉へようとするかのやうにぢつとして考へに耽ふけつた。回想はいろんなことに飛んだ。結婚当初の、あのはじめて我が手の中にしつかりとつかんだといふ気を起させた盛子の、靱しなやかな身体がつくり出す自然な女らしいしな、健康な溢れるやうな慾望、――口のあたりをもごもごさせる徳次、滑つこい河石、――相沢へ往診に行く途中の坂路で、ずつと上の方から自転車をぴかりと光らせながらだんだん大きく現れて来た、あの印象的な大石練吉との邂逅かいこうや、盛子の妊娠、道平の卒倒(その道平はあれから経過がよくて、今では多少不自由ながらぼつぼつ歩き出すほどになつていた)だのいふことが、その一つ一つはそれこそ手につかめるほどにはつきり目の前に浮んで来ながら、全体としてはひどく遠い前のことだつたやうにも又つい昨日のやうにも思はれるのであつた。それらのことは、房一とは切つても切れぬものとして、何かしら意味があるやうに感じられもしたが、同時に部分々々としては記憶の中で精彩を放つにすぎない互ひに独立した、単に印象の鋭いいくつもの火花のやうにも思はれた。それがあの一年といふものだつた。すべてが一年の中に過ぎて隠れこんでしまつた。これがあの「過ぎ去つた」ことだつた。しかも、過ぎ去つたといふ決定的な響きにもかゝはらず、それは何といふとりとめもない曖昧なものだらう。あらゆることが、あのつい二三ヶ月前に鬼倉と対むかひ合つた晩のことさへ、まるで他愛のない、夢の中の出来事としか思へないのであつた。しかも、相手の隈取りのやうな荒い皺の走つた顔や、静かで不気味な落ちつきと、低い力のある声などは、今でも軽い戦慄を思ひ出させるのではあつたが――。それは或る夜の突発的な情慾のやうに、何かしら後うしろめたい気持さへ感じさせた。が、それさへも過去のなだらかな手つきによつてぼかされ、平坦になり、記憶の中にいくらか異様な突起を見せているに過ぎなかつた。あれから、鬼倉とは往診の途中で一二度会つた。彼は例の荒い皺を、あの晩のやうに深く険けはしくはなく、ゆるめて、そのために一層老人臭い顔になりながら会釈ゑしやくをした。そして、一度は手にできた皮膚病を診てもらひに房一のところに来さへした。その時のことであるが、彼はふいに自分の死んだ一人息子の話をした。
「折角のところを、突然でまことに失礼でありますが」
「これですか――?」
その塗りの色の落ちついた外まはりの築地塀、よく拭きこまれた廊下、塵一つ落ちていない部屋々々、渋い雅致のある床の置物だの掛軸、これらすべての上に現れているどこか神経質でさへあるよい趣味と堅固さ――さういふ外見にかかはらず、大石医院では年来をかしなごたごたが繰り返されていた。
「ホリョ?」
と、盛子が傍から又さつきのをかしさを思ひ出したらしく、そつと注意した。
「それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし」
練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。